ストライクザゴールド(Strike the Gold、1988年3月21日 - 2011年12月13日)は、アメリカ合衆国のサラブレッドの競走馬、種牡馬。1991年のケンタッキーダービーに優勝した。

経歴

  • 特記がない限り、競走はすべてダートコース。

出自

ケンタッキー州のカルメットファームで生産されたサラブレッドの牡馬である。ストライクザゴールドは生まれたばかりの時、脳への酸素の供給がうまくいかない「ダミーフォール症候群」を引き起こしており、最初の3日間は酸素吸入で命を永らえた。母マジェスティックゴールドはポカホンタスステークス勝ち馬で、ストライクザゴールドはその4番目の仔であったが、出産から4か月後に疝痛のため死亡している。そのような事情にもかかわらず、1歳時のストライクザゴールドは牧場内で最も速い馬であったという。

ストライクザゴールドは2歳時の1990年、カルメットファームは深刻な財政危機に直面していた。そこでB・ジャイルズ・ブロフィを相手に、ストライクザゴールドを含む2歳馬8頭をまとめて購入する取引を持ち掛けた。この取引額は数百万ドルになるもので、ブロフィ単身では引き受けきれず、ウィリアム・J・コンドレンとジョセフ・M・コーンナチアの助力を得て成立にこぎつけた。3名は「BCCゴールドステーブル」を結成し、ストライクザゴールドはその勝負服のもと競走馬となり、ニック・ジトー調教師のもとに預けられた。

2歳-3歳前半(1990-1991年)

1990年にデビューしたストライクザゴールドは、10月11日の初出走で9着、のちの11月15日に行われた3戦目のアケダクト競馬場での未勝利戦で初勝利を挙げた。奇しくもこの日、カルメットファームの看板種牡馬で、ストライクザゴールドの父であるアリダーが不審な死を遂げている。

1991年、3歳シーズン初戦は1月26日のガルフストリームパーク競馬場での一般戦で3着、2月23日の一般戦では2着であった。3月16日のフロリダダービー(G1・ガルフストリームパーク・9ハロン)にも挑戦したが、2歳チャンピオンのフライソーフリーに1馬身差抜かれて敗れている。続く4月13日のブルーグラスステークス(G2・キーンランド・9ハロン)に向けて、ジトーはストライクザゴールドをまるでファーラップを鍛えるかの如く調教した。かくしてクリス・アントリー騎乗のもと出走したストライクザゴールドは、フライソーフリーに3馬身差をつけて重賞初勝利を挙げた。

5月4日に迎えたケンタッキーダービー(G1・チャーチルダウンズ・10ハロン)ではジムビームステークスとレキシントンステークスを連勝してきたハンセルが1番人気で、続いてフライソーフリーが2番人気であった。3番人気であったストライクザゴールドはスタートからバックストレッチまで中団10番手付近に位置し、コーナーから6頭分ほど大きく回って追い上げ、直線入り口で先頭に立つと、同じく中団から追い上げてきたベストパルを1馬身3/4差抑えて優勝した。勝ちタイムの2分03秒は、良馬場のタイムとしては史上3番目に遅いタイムであった。

続くプリークネスステークス(G1・ピムリコ・9.5ハロン)ではハンセルが優勝するなか6着、三冠最終戦のベルモントステークス(G1・ベルモントパーク・12ハロン)では再びハンセルを追い上げるも、アタマ差2着で勝利を逃した。

3歳後半-5歳(1991-1993年)

3歳シーズン後半はジムダンディステークス(G2・サラトガ・9ハロン)で3着をはじめ、トラヴァーズステークス(G1・サラトガ・10ハロン)やブリーダーズカップ・クラシック(G1・チャーチルダウンズ・10ハロン)といった王道路線を歩むもいずれも善戦に留まり、4歳時の1992年4月4日のサーティーシックスレッドステークス(L・アケダクト・9.5ハロン)での2着でダービーでの勝利から12連敗という不名誉な記録を作ってしまった。このためかジトーの調教に馬主側から疑義を呈され、ストライクザゴールドは5月にファシグ・ティプトンのセリ市に上場された。このセリは当初の馬主3人のうちの2人、コンドレンとコーンナチアが290万ドルで落札し、結局ジトーは調教師を継続することが出来た。

セリ市から5日後の5月9日、ピムリコスペシャルハンデキャップ(G1・ピムリコ・9.5ハロン)でフライソーフリーを3/4馬身破って、ストライクザゴールドは久々の勝利を挙げた。その翌戦6月6日のナッソーカウンティハンデキャップ(G2・ベルモントパーク・9ハロン)ではプレザントタップをクビ差破って連勝を遂げた。しかしその後は再び善戦するに留まり、5歳時の4月21日の一般戦での勝利が最後の勝ち星となり、1993年6月5日のナッソーカウンティハンデキャップ3着を最後に引退した。

種牡馬入り後

引退後はケンタッキー州のヴァインリー牧場で種牡馬となったが、種牡馬成績は振るわず、1997年時点での種付け料は15000ドルであった。1998年にトルコジョッキークラブに売却され、カラジャベイペンションスタッドで繋養された。トルコでは短距離界で活躍したサブルル(Sabırlı)などを輩出し、2011・2012年のトルコリーディングを獲得している。

2009年3月にそれまでダービー馬としての最長生存記録を誇っていたアリシーバが死亡し、それから死ぬまでの間ストライクザゴールドが最長記録保持馬となった。2011年12月14日、ストライクザゴールドは左前肢の球節を骨折、そのため安楽死の処置がとられた。23歳であった。

血統表


脚注

出典


THE STRIKE GOLD ストライクゴールド 色落ち ケンタのブログ

ゴールドストライク20本 メルカリ

ストライク

スティードストライク|さめさんのガンプラ作品|GUNSTA(ガンスタ)

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