ジョン・デブレット(英語: John Debrett、1753年1月8日 – 1822年11月15日)は、イギリスの出版業者、編集者。『デブレット貴族名鑑』(2巻、1802年5月初版)の出版で知られる。
生涯
ジャン・デブレット(Jean Debrett)とレイチェル・パンショード(Rachel Panchaud)の息子として、1753年1月8日に生まれ、ウェストミンスターで洗礼を受けた。13歳でロバート・デイビス(Robert Davis)の本屋で見習いになり、以降1780年/1781年頃まで続いた。
1781年にピカデリー178号、バーリントン・ハウスの向こうにあるジョン・アーモンの書店を買い上げて経営した。アーモンが経営したときと同じく、書店はホイッグ党員のたまり場で、政治や文学のラウンジとしても使われたというが、一方で小ピット派(トーリー党員)はその隣にあるストックデイル(Stockdale、ジョン・ストックデイルの店)に行くことが多かった。
1802年5月に『デブレット貴族名鑑』の初版を出版、以降第15版(死後の1823年に出版)まで編集に関わったほか、1808年に『デブレット準男爵名鑑』を出版した。貴族名鑑の出版がデブレット死後も続いたため、貴族名鑑といえばデブレットの名前が挙げられるほど有名になり、関連書籍にもデブレットの名前が使われたという。
一方で書店の経営状態は芳しくなく、デブレット自身が1801年と1804年の2度にわたって破産を宣言され、1805年には書店を廃業したが、出版業は1814年頃まで続けた。以降は印税と妻ソフィアからの年金を頼りに生活した。また、借金により王立法廷監獄(1806年2月1日釈放)やフリート監獄(1814年11月17日釈放)に投獄されたこともあった。
晩年にロバート・ハイシュを出版業者トマス・ケリー(Thomas Kelly)に紹介し、ケリーはハイシュに著作を依頼したが、デブレットはハイシュに90ポンドの紹介費を要求した。ハイシュは75ポンドしか支払えず、1819年に逮捕された。デブレットの死後、ハイシュは一旦釈放されたが、今度はデブレットの債権者が取り立てにきて、ハイシュが再逮捕された。
長い闘病生活ののち、1822年11月15日にリージェンツ・パークのアッパー・グロスター・ストリート(Upper Gloucester Street)にある自宅で死去、22日に埋葬された。享年70で、遺言状は残さなかったという。
人物
『ジェントルマンズ・マガジン』の訃報では「善良で親切な人物」(a kind, good-natured, friendly man)とし、「多くの財産を手にする機会はあったものの、自信過剰と気楽さにより、それを上手く活用できなかった」と評した。
編纂した書籍
- The European Magazine, and London Review(1782年1月 – 1801年)
- The Foundling Hospital for Witの新版(1784年、6巻、十二折り判) - 巻末でアーモンが出版したThe New Peerage(1784年、3巻、八折り判)を宣伝している。この貴族名鑑について、アーモンが編集に関わっておらず出版のみ手掛けたとする説と、アーモンが編集したとする説がある
- Asylum for Fugitive Pieces in Prose and Verse(1785年 – 1788年、4巻、十二折り判)
- Parliamentary Papers(1797年、3巻、八折り判)
- 『デブレット貴族名鑑』(Peerage of England, Scotland, and Ireland, containing an Account of all the Peers、2巻、十二折り判)
- 初版:1802年5月
- 第2版:1802年9月
- 第3版:1803年6月
- 第4版:1805年
- 第5版:1806年
- 第6版:1808年
- 第7版:1809年
- 第8版:1812年
- 第9版:1814年
- 第10版:1816年
- 第11版:1817年
- 第12版:1819年
- 第13版:1820年
- 第14版:1822年
- 第15版:1823年 - デブレットの死後に出版され、以降の再版にデブレット自身は関わっていない
- 第16版:1825年
- 以降デブレット社が出版を継続、2019年には電子書籍版が出版された
- 『デブレット準男爵名鑑』(The Baronetage of England, containing their Descent and Present State, by John Debrett、1808年初版、2巻、十二折り判)
- The British Imperial Calendar(1818年、1820年 – 1822年)
家族
妻ソフィアとの間で4男2女をもうけた。
- ソフィア・ミラベラ(Sophia Mirabella、1788年2月12日 – 1859年11月23日) - 1820年2月3日、リチャード・サミュエル・バトラー・サンディランズ(Richard Samuel Butler Sandilands、1791年ごろ – 1864年2月29日)と結婚
- ジョン・エドワード(1789年9月15日 – 1835年5月10日) - 軍人、インドのシムラーにて没。1825年10月31日、マーサ・バーラップ(Martha Burrup、1794年ごろ – 1867年11月17日、ジョン・バーラップの娘)と結婚
- ジョージ・ギブソン(George Gibson、1792年5月22日 – 1817年12月24日) - 軍人、インドのカタックにて没
- マリア・アン(Maria Anne、1795年4月13日 – 1826年6月25日) - 「マリア・エイミー」とも。生涯未婚、コルカタにて没
- チャールズ・フィールド(Charles Field、1798年2月5日 – 1798年8月22日)
- ヘンリー・シモンズ(Henry Symonds、1801年12月5日 – 1842年1月26日) - 聖職者。1822年7月10日にケンブリッジ大学ダウニング・カレッジに入学、1827年にLL.B.の学位を修得した。生涯未婚
出典
関連図書
- "Debrett, John (c. 1750-1822)". The Riverside Dictionary of Biography (英語). Houghton Mifflin. 2005. p. 220. ISBN 978-0-618-49337-1。
外部リンク
- ジョン・デブレット - ナショナル・ポートレート・ギャラリー (英語)
- ジョン・デブレットに関連する著作物 - インターネットアーカイブ




